月別アーカイブ: 2017年6月

ドタバタかいご備忘録⑯ 薬と通院のストレス

小林麻央さんの訃報から5日。

在りし日の、お子さんとの写真をテレビで見る度、

かわいい子ども達とどんなにか一緒にいたかっただろう、

成長を見守りたかっただろうと想像し、涙が出そうになります。

私は、癌で亡くなった父と、パーキンソン病を患った母の長い闘病生活に接し、

病気が人の心まで支配してしまう怖さを思い知りました。

「力強く人生を歩んだ女性でありたい、子供たちにとって強い母でありたい」と

最期まで凛として笑顔を忘れなかった麻央さんを、心から尊敬します。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

パーキンソン病には薬が欠かせません。

脳内で減少してしまったドーパミンを薬で補うなどすることで、

一時的に症状を和らげることができます。

ただし、薬が多すぎると副作用が出てしまい、少ないと体が動かないので、

薬の調整が大変になってきます。

母は、眠気などの副作用が強く出るタイプだったので、一度に飲む薬の量を少なくし、

その分、小刻みに、1時間半ごとに服薬していました。

飲むのが遅れると、一人では動けなくなり、よだれは止まらず、息が苦しくなって

うつ症状に襲われるし、一度薬が切れると、再び効くまでに時間がかかってしまいます。

それなのに、私が付いていないと薬を飲み忘れるので、いつも私と母の喧嘩の種に

なっていましたが、今思えば認知症が始まっていたのかもしれません。

そもそも薬の効果が1時間半も続かないことが多く、常に薬が切れることにおびえ、

次の服薬の時間を気にする生活は、しんどいものでした。

 

通院は2週間おき。

私は毎回、会社に半休をもらい、母に付き添いました。

薬の効き方はどうだったか?副作用は?生活上困っていることは?などを医師に伝え、

薬の増減、変更を行いますが、これがなかなかうまくいきません。

というのも、普段、私の前では、体の動きにくさや薬への不満などを訴えてばかりの母が、

肝心の医師の前では強がってしまうのです。

隣で付き添う私は、(どうしてもっと素直に訴えないの?)とイライラするばかり。

さらに、長い待ち時間の間は薬が切れて苦しんでいても、なぜか医師と対面する時には

気が張っているからか、すこぶる調子がいいなんてことも。

私にしてみれば、一番状態の悪い時の母を診てもらって、対処してほしいのですが、

結局、「いい調子ですね。では、薬はこのままで…」となってしまうのです。

つらい症状に耐えて耐えて、やっとの思いで2週間乗り切って迎えた受診日なのに、

母の症状も、介護の負担も改善されないまま。

私はがっかりして病院を後にするのでした。

 

遊ぶより、やりたいこと!

平日の夜はバタバタで、なかなか子供と遊んでやれないのですが、

先日、珍しく時間があったので、次男に

「30分ぐらい一緒に遊べるよ。何して遊ぶ?」と聞くと、思わぬ答えが返ってきました。

 

「あそぶのはいいから、おさらをあらいたい!」

 

というわけで、こんなことになりました。

 

 

遊ぶより、皿洗いを選ぶなんて、お姉ちゃんお兄ちゃんにはなかったことです(・o・)

お手伝いを買って出てくれて嬉しいような、

せっかく遊んでやれると思ったのに残念なような…。

 

満足そうな様子がかわいいから、良しとしよう(笑)

ドタバタかいご備忘録⑮ 第2の青春

私が仕事に復帰したことで、母は変わりました。

一番変わったのは、日中に一人で外出するようになったことです。

私が育休中に一緒に通っていたパーキンソン病友の会のコーラスクラブに続けて通ううち、

気の合う仲間ができ、友の会の社交ダンス部にも入部。

さらに、仲間たちと毎日のようにカラオケに行ったり、

買い物に行ったりするようになりました。

もちろん、外出中に動けなくなることも多々あったようですが、

同じ病気と闘う仲間たちが一緒なら心強かったようです。

ほんの数か月前まで一人で外出するのが怖いと言っていたのがうそのように、

どんどん積極的になっていきました。

また、生まれて初めて持った携帯電話で仲間と長電話をしたり、

メールを覚えて毎日やりとりしたりと、

あの頃の母は、まるで女子高生のように楽しそうでした。

私が特に嬉しかったのは、母がオシャレに気を遣うようになったこと。

元気な頃は化粧品店を営んでいたこともあり、メイクも洋服も大好きでしたが、

病気になってからは「洋服が似合わなくなってしまった」と悲観して、

化粧もろくにしていませんでした。

毎日、キレイにして出かけて行く姿は、昔の母を見ているようでした。

後で分かったことですが、母は当時、友の会で出会った男性に好意を抱いていたようです。

こういう時、娘としては複雑な思いになるのが普通かもしれませんが、

私は、母が活き活きと過ごせるなら恋も大歓迎、と思っていました。

今思えば、母にとって第2の青春と呼べる時期だったのかもしれません。

(仲間とのひと時、楽しそうな母)

ドタバタかいご備忘録⑭ 仕事と介護と育児の両立

私の仕事復帰に伴い、日中は母が一人で身の回りのことをしなければならなくなりました。

私の帰りが毎晩8時半ごろになるので(仕事の後、娘を保育園に迎えに行ってからの帰宅)、

母の夕食は、朝のうちにだいたい仕上げて家を出るようにしていました。

毎日、夕方2時間ほど、介護や家事のサポートをしてくれるホームヘルパーさんに

家に来てもらい、母のお膳の支度に、着替えやトイレの介助、母の部屋の片づけなどの

手伝いをお願いしていました。

この頃の母は、パーキンソン薬の副作用で、まるで発作のような激しい眠気に

度々襲われていました。

ご飯を食べながらでも眠ってしまうため、食事もスムーズに進まず、

私が帰ってもまだ食事を終えていないことがほとんどでした。

食卓に突っ伏しているか、椅子からずり落ちる寸前の体勢で眠ってしまっていて、

手には箸が1本かろうじてひっかかっているような状態。

母の服は、味噌汁やお茶がこぼれてびしょびしょになっており、

テーブルの下にはお茶わんが転がり、ご飯や味噌汁が散乱していました。

そのため、私が家に帰ってからまずすることは、母の着替えの手伝いと、

テーブルと床の掃除、そして、母に再び夕食を食べてもらうことでした。

(眠ってしまっても、お腹は空いているのです)

眠ってしまいそうになる母と一緒に、何度も何度も声掛けをしながら食べる夕食は、

正直、食べた気がしないくらい大変でした。

さらに、やっとのことで食べ終わった時には、母はたいてい薬が切れ、手足が動かず、

歯磨き、トイレ、ベッドへ連れて行くなどの介護が必要になっていました。

並行して、1歳に満たない娘の世話と、多少の家事もあったので、

家に帰ってからの2時間は、ただただ必死だったことを覚えています。

それだけに、娘が保育園の延長保育で夕食を食べさせてもらっていたのが、

本当に助かりました。

ホームヘルパーさんに、保育士さん、いざという時に駆けつけてくれた義父母…

周囲の様々なサポートのおかげで、仕事と介護と子育ての両立は成り立っていたのでした。

 

ドタバタかいご備忘録⑬ 介護はきれいごとではない

(ここから飛び降りたら、この日々から抜け出せるのかな。)

それは決して、死にたかったわけではなく、

ただ、今の状況から抜け出したいという思いでした。

そんな私を我に返らせたのは、7か月の娘でした。

私の気持ちを知ってか知らでか、ニコニコ笑いかけてきます。

私は娘を抱きしめて泣きました。

そして、この時、介護はきれい事ではないと、知ったのでした。

それまでは、介護疲れによる自殺や、殺人のニュースを見ると、気の毒な思いの一方で、

それでも命まで落とすなんて…とどこかで考えていました。

しかし、自分が当事者になって初めて、

「こういうことだったんだ」と分かったような気がしたのです。

 

今思えば、私がここまで追い込まれた理由の一つは、

介護の相談ができる相手がいなかったことかもしれません。

自分と同じように親の介護をしている人と話したい、

介護のしんどさから親に優しくできない自己嫌悪を分かってほしい、

夜中の介護はどうしているのか聞いてみたい、と切実に思っていました。

子育て中のお母さんが集まる場は多いのに、介護者が交流できる場はほとんどないことが

残念でした。

 

そんな我が家の転機は、私の仕事復帰でした。

仕事にさしつかえてはならないと、母自身が夜中に私を呼ぶ回数を減らしてくれたのです。

それまでは嫌がっていた夜のオムツを着けることで、トイレの回数を減らし、

ベッドの横に簡易トイレを設置して、自力でトイレに行く努力も始めました。

それでも、少なくとも深夜に1回と明け方に1回は介助が必要でしたが、

起きる回数は半減しました。

また、私の疲弊ぶりを見かねて、夫も母をベッドから起こしたり、

トイレに連れて行ったりと、介護に協力してくれました。

さらに、一番大きかったのは、母と離れる時間ができたこと。

仕事をしている時間は、介護の事を忘れられました。

母と気まずくなっても、仕事でリセットできることが、救いでした。

 

とはいえ、仕事と介護(プラス育児)の両立は、また違った大変さがあるのも事実です。

次回、お伝えします。